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1.17 阪神大震災から26年の記憶

2021年1月17日

今日で阪神大震災から26年が経ちますね。

あの時、私は18歳の高校三年生でした。

ものすごい横揺れで目が覚めました。動けないまま茫然としている間に、横揺れから縦揺れに変わったのを憶えています。

今までに味わったことない大きくて長い地震でした。揺れが収まった時には、家の中の物が散乱していました。

慌ててテレビを付けると、瓦礫の山となった神戸の街、そしてあちこちで炎を上げる長田の光景が映っていました。

これまで何の不自由もなく平和に生きてきた私にとって、なにもかもが信じられない光景でした。

当時住んでいた高砂市は震度4~5だったので、神戸ほどの被害はありませんでしたが、それでも電車が止まり、道路はひび割れて、電柱が傾いたりあちこちの家の物置などが倒れていました。

滅多に雪が降らない地域ですが、あの日の朝は静かに雪が降っていたのを憶えています。

人と言う生き物は、自然災害の前には何もできないということ、そして突如目の前に突き付けられた非現実的なことには、ただ茫然と見ていることしかできないことを実感しました。

震災の中心地である神戸は、私にとってもとても深い関わりのある街でした。

毎年1月17日には自宅で黙とうは捧げていたのですが、当時を知っている人間が伝えていくことが大事だとTVで見たので、私が見て感じた阪神大震災を自分なりに残して行きたいと思います。

「神様が戸を閉めて守っている」神戸の街

私の祖父母は神戸市長田区の駒ヶ林周辺に住んでいて、小学生の頃は妹と二人で山陽電車に乗って板宿駅まで行き、そこから歩いて祖父母の家にまで遊びに行っていました。今なら考えられないですが・・・

昔ながらの長屋が残る下町で、六間道商店街や大正筋商店街など活気があって、すれ違う人が皆知り合いで挨拶を交わすようなあたたかい街だった記憶があります。

長期休みのたびに祖父母の家に行って2~3週間くらい滞在していたので、遊ぶ友達もいて、第二の実家のような感じでした。

神戸はとてもお地蔵さんが多い地域です。なので地蔵盆というものがあって、子どもたちが各地のお地蔵さんを回ってお線香をあげると、お菓子を貰えるとっておきのイベントがあります。

小袋のスナック菓子を配るお地蔵さんが多いのですが、毎年一か所だけ凍ったチューペットを配るところがあって、紙袋が濡れて破けたりするトラブルもありました(^-^;

本来は地域の子どものためのものなのでしょうが、そんなことはあまり気にしない太っ腹な気風がありましたね。

下町なこともあって、すれ違うのが難しいような路地の奥にお地蔵さんがあったりして、探検のような感じで楽しかったです。

そんな子どもを護るためのお地蔵さんがたくさんある神戸の街でも、たくさんの子どもの命が失われました。

特に長田区は火災の被害が一番大きかった場所で、駒ヶ林からも近い鷹取周辺では何も残らないくらいの大火災が起きました。

私は少し後になって、JR神戸線の普通電車から何もなくなってしまったその光景を見ました。

もしかすると、鷹取じゃなくて六甲道の火災跡だったかも知れないのですが、当時は写真でしか見たことのない空襲後のような光景に衝撃しかなくて、焼け野原となった場所に転がるように横たわるビルを茫然と見ていた記憶があります。

祖父母はすでに高砂に引っ越してきていたので被災はしませんでしたが、神戸は母の生まれ育った町でもあり知人もたくさんいるので、安否確認のために出来る限りの支援物資を持って神戸へ向かいましたが、駒ヶ林方面へは立ち入ることさえできなかったそうです。

ネット情報もほとんどなかった時代、女性は結婚して苗字も変わるため、いまだに安否の分からない同級生もいるそうです。

祖母が「神戸は神様が戸を閉めて守ってくれてるから、大きな災害は起きないんだよ」と私が幼い頃に言っていました。そんな街に、日本でも未曾有の災害が起こるとは思ってもみませんでした・・・

「冷たいおにぎりなんて食べられない」という言葉の真意

JRの各駅停車が復旧したころに、西ノ宮に叔父家族が住んでいたので、持てるだけの支援物資を持って神戸へ行きました。

完全に倒壊したビル。隣のビルに寄りかかっているビル。あちこちに敷かれた青いビニールシート。

私たちが行った時はもう撤去されていましたが、体育館や公民館などは避難所になっているので、近くの空き地に亡くなった人のご遺体を置く場所が設けられていたそうです。

普段ならそれだけで衝撃を受けるでしょうが、半倒壊した自宅、雪がチラつく寒さ、自分の家族のことでいっぱいであり、また次から次から運ばれてくるご遺体に感覚さえも麻痺していたと聞きました。

今でこそ、過去の経験から支援物資は早めに届くようになっていますが、当時は未曾有の災害で政府の対応も遅く、やっともらえた支援物資が3人家族でコンビニのおにぎり1~2個だったそうです。

私たちも学校で支援物資を集めて届けたりしていましたが、災害地の神戸からは「冷たいおにぎりなんか食べられない」と言って捨てているなど、本当かどうか分からない噂も出回ったりしていました。まだネットも普及してなかった当時は、そんな噂を真に受けて「人の好意を踏みにじるなんて!」とまだ若い私たちは憤慨したこともありました・・・

でも今思い返せば、兵庫県の南部と言う地域は、暑くも寒くもなく気候的にも恵まれた平野地で、火山もなく雪も3~4年に一度積もることがあるくらいの本当に平穏な土地なのです。だから播磨の人は我慢強くないとまで言われるほどに。

そんな播磨平野でも雪がチラつく寒い日の早朝に地震が起こりました。自宅が倒壊し、身内が亡くなった方もいて、寒さと絶望の中で着の身着のままで避難した場所では、度重なる余震に怯え、何日もお風呂にも入れない、せめて温かいものが食べたかったと思います。

おにぎりを前に「温かいものが食べたい」とこぼした言葉が一人歩きしてしまった結果、間違った解釈で私たちに伝わってしまったのではないでしょうか。

 

災害救助犬を連れたスイスの救助隊や、他の国からもたくさんの救助に日本に駆け付けてくれたそうですが、政府の対応が遅かったせいで、そのほとんどが活躍できずじまいだったと聞きました。

倒壊した家の下敷きになったまま、火災に巻き込まれて亡くなった方もいます。いつかの新聞記事で、火の手が迫る中、倒壊した家の下敷きになった子供が母親に「お母さん、もういいから逃げて」と言って、母親はごめんねと泣きながら、子供の髪の毛を切って持って逃げたという話がありました。

もう少し政府の対応が早ければ助かったかも知れない命、そんな風に消えて行った命がたくさんあることを忘れないでほしいです。

思い出の地上最後の「板宿駅」

変な看板が立っていたり、ごちゃごちゃしていて下町感たっぷりの板宿駅。特に下り線側。

あんなに人の乗り降りが多いのに、当時は特急が止まらない駅でした。

線路がすごいカーブしているせいで電車とホームの隙間が大きくて、幼い頃は乗り降りが怖かった思い出の板宿駅は、元々2日後の1月19日には地下鉄に移行する予定でした。でもまさかのこんな形でお別れをすることになってしまったのは、とても悲しかったです。

阪神大震災の2日前の成人式の日に、友達と二人で始発に乗って大阪のイベント会場に行きました。

まだ暗い須磨の沖合に浮かぶ船の漁火がとても綺麗だったのを憶えています。

山と海に囲まれた庶民的だけど美しいあの街の光景は、もう二度と戻ってこないのだと、今でも須磨辺りを電車で通り過ぎる時に思うのです。

震災から26年経った今、神戸の街は当時の面影もないくらい復興を遂げて、お洒落で美しい街に生まれ変わっています。東北の震災を見ていても思いますが、日本の技術はすごいなと思います。

でも兵庫県民なのに「ルミナリエ」が震災の鎮魂のために開催されていることを知らない人がいます。

震災を知らない世代の子が、当たり前のように人に向かって「死ね」と発言するのを聞くと、その人がそのまま二度と会えなくなるかも知れない可能性を考えてほしいと思うのです。

それが自分のせいじゃなくても、きっとずっと後悔すると思います。

知り合いの年下の子に、その経験をした子がいるので想像で言っているわけではありません。その子はもう二度と冗談でも「死ね」なんて人には言わないと、泣きじゃくりながら後悔を口にしていました。

人は痛みを知ることで成長するかも知れません。でも失われた命は帰ってこないことだけは、心に留めておいてほしいのです。

1995年1月17日午前5時46分 阪神・淡路大震災

震災が奪ったもの命 仕事 団欒 街並み 思い出

・・・たった1秒先が予見できない人間の限界・・・

震災が残してくれたもの やさしさ 思いやり 絆 仲間

この灯りは 奪われた すべてのいのちと

生き残った わたしたちの思いを むすびつなぐ

神戸市:慰霊と復興のモニュメント1.17希望の灯り (kobe.lg.jp)

写真は、2019年にルミナリエへ行った時に撮影した「希望の灯り」です。

このモニュメントの前で涙を流している方が何人もいました。

2020年は新型コロナのためにルミナリエは開催されませんでしたが、今年はまた人々が静かな気持ちで鎮魂の祈りを捧げられることができますように・・・

「しあわせ運べるように」と「花は咲く」

阪神大震災後の1995年より神戸で歌い継がれている「しあわせ運べるように」が第二の神戸市歌に指定されたそうです。

この歌は、小学校教諭の臼井真さんが震災後すぐに作った曲です。

未曾有の災害で絶望の真っ只中にいた神戸に、生き残った私たちがが亡くなった人の分まで強く生きて、大好きだった神戸を元の姿に戻していこう!と呼びかける歌だと思っています。

「生きている人から、亡くなった方へ」復興の誓いを立てた歌なのかな、と。

そして、東北の震災で生まれたチャリティーソング「花は咲く

こちらの曲は作詞は岩井俊二さん、作曲は菅野よう子さん。

「亡くなった方から、生きている人」へ向けての歌だと思うのです。

私なりの勝手な解釈なので、本当のところはどうか分りませんが・・・

まったく反対の立場からの歌なのですが、2曲とも本当に心に響く良い歌だと思います。

ずっとずっと後世まで歌い継がれていってほしいですね。

忘れないで「1月17日5時46分」

阪神大震災でたくさんの支援を頂いた神戸市は、今もどこかで災害が起こるとトラックにいろんな物を載っけて支援に向かっています。大災害を経験したからこそ出来ることと、今まで受けた恩を返すためだと聞いたことがあります。

そんな神戸はやっぱり素敵な街だなと思います。

時間が経てば人の記憶は薄れていきます。特に自分と関わりがなければ、あっさりと忘れてしまいます。

戦争を知っている人がほとんどいなくなってしまったように、震災のこともいずれは知っている人がいなくなってしまうのでしょう。当時10~20代だった私たちが、後世に伝え残していくことが大切なのだと思います。

阪神大震災の大きな犠牲の上で得た教訓を、いつかまた来るかも知れない大災害の時に生かせるように。

忘れないで欲しい、1995年1月17日5時46分あの日のことを。

そして、2011年3月11日14時46分のことを。

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